昭和45年8月4日 夜の御理解



・・・・頂いて有り難いと言うことは、お願いをしておかげを受けるということが有り難い。またお願いができる、縋れるものがあるということも有り難い。信心のない者は縋ることもできまいし、また縋っておかげを、体験を受けるということも勿論ありません。信心させて頂く者はそこに縋るものがあるということ、しかもそれは縋っておかげを頂くと言う事。それは自分の思う通りというようなことではなくて、いつも思う以上のおかげを下りますと金光様が仰っておられます。願う以上のおかげになることが有り難いと、私わからしてもらわにゃいかんと・・んと信心というのは悲しい時に神頼みするということだけが信心じゃなくて、そういう縋るものをいつの時でも持っておること、縋れば縋った以上のおかげを頂けるということだとね。
 御祈念前に原さんがお届けをされますのに私は耳が遠いから十分な聞き取りはできませんけれど、だいたいなんか今日は昌一郎さん達夫婦がなんか出ておられたらしいん。そいでもう夫婦、老夫婦二人だからもうなすのびしぎ焼きでもしてからもう簡単に夕食を頂きかけておったら帰ってみえたといったようなことだったらしい。したらあの「ちょいとお母さん」昌一郎さんが「頂くのをのをちょいとやめになってここに何か買うちきとるけんで」ちて、あのぶどう酒と焼酎を小瓶で、小瓶を一本づつ買うちきて、それを具合よう調合して、まぁ御飯前に頂けというわけです。
 嫁さんのよしこさんが「ちょいと待ってくださいかしわを買うてきとるけん、から揚ばするけんちょいと御飯ば頂くとは待ってください」というて待ってお食事に付かせて頂いてから、昌一郎さんがほんとに親の誕生日っち言うたっちゃ、子供は忘れとるごたんことばってん、あぁ自分の子供の誕生日っていやぁ親は寿司なっとするけれども、親の誕生日とかなとかちゅうことはいつも忘れてまぁすまんというようなことを、ぼつぼつと昌一郎さんが言われた、またよしこさんが言われたと言う事をね聞かせて頂きよったら、もうなんか込み上げてくるごたんあれがあってくるとですよね。
 どういうもがそういう有り難いものになってくるのか、自分でわからないのですけど、ほんとにあのいつも昌一郎さんでもよしこさんでも、どっちかっちゅうと物を言いたくない方の人ですから、言いたいものを心の中にいっぱい持っとっておっても言うチャンスが無かったり、表現し得なかったりで、親に思うことも????こともさぞかしあろうと私は思うんですよね。
 ですから言うても言わんでも子供達はいつもそう親が思うておる通りのことはないにしてもですよね、昌一郎さんではないけど親の誕生日を忘れるぐらいなこっとと言うてそに????されるほどしに親をやっぱ思うておることだけの事実はね事実なのですから、絶対子供が親をを???????なんて思っとる筈が無いということをです、そういうことを言わず語らず、例えば言わんでもです、ほんなこげん時はこげんしたちゅう言うてもらえば良かばってんといったような意地の悪い覚え方をせずにですね、私は私が今日感動したようなものがいつもお互いの親子の仲には交流しておるはずだから、それをキャッチできるのは結局私の信心だと思うのですよね。
 私が????聞かせて頂いてそういうものを私はキャッチしたらとたんに、私は悲しいまでに有り難とうなったんです。ですから電気が切れて真っ暗だからあのーいいですけどもほんとに私の顔が崩れるくらいにあたしは今日は感動しました実を言うと。あたしそういうものがね信心だとおもうんですよ。ね。どうでもひとつこれは取分け親子の仲は他人の仲でもそうです、もうあれをいじめてやろうとかどうとかいうようなことやらは実を言うと有り得ないのです。けれどもこちらの心のキャッチし所が、キャッチし得ないのであってね実はそうだと。
 よる渡る世間にはやはり鬼はないようにね、まして親子のことなのです。もう本当に「お母さんこうですああです」と撫でたり摩ったりそれこそ口にも無いことでも平気、あの言うような人もやっぱ世の中にはありますけれどです、また昌一郎さんの夫婦のように思うとっても言えないけども今日のようになんか良い風にちょっとチャンスが与えられると、んー、はーこの人達もこんな優しい思いがあったのかとまぁ感じられるだろうと思うんです。ただそれを物を言わんでもそれをいつも感じ取れれるこちらの信心がね、私は必要だということことを今晩感じましたね。 有り難いものをこちらがキャッチし得る、こちらの方のいわゆる受信機の方が大事だと思うんですよね。どうぞ。


榎島多佳子